パリピ批判論
パリピ。
パーティーピープル。
人と群れて楽しむことが大好きで、社交的な場や賑やかなところが好きな若者をさす言葉。
人がパリピという言葉を使うとき、そこには必ず、見下す気持ち、嫌悪感。
何かしらのマイナスな意味を含んでる。
流行りの服に身を包んで、今日から明日に遊び渡り、色鮮やかなカクテルとかスタバのフラペチーノをTwitterに投稿。
同じような流行りの服に身を包んだ彼氏とか彼女がいて、ペアルックしたり制服ディズニーしたり。
レポートだって、試験だって、ヤバイヤバイって言いながらなんとか乗り切って、試験期間が終わったら、また呑んだり群れたりの大騒ぎ。
そして、たくさん写真を撮って、またTwitterに貼り付けて、ハートを集めて。
そんなパリピのことを今日は考えていきたいと思う。
まず、基本的な立ち位置としてワタシはパリピが好きではない。
それは、高校時代にスクールカーストの頂点にいた人たちになんとなーく見下した目を向けられたことをパリピを通して思い出してしまうからであり。
ろくすっぽ口も聞いたことないのに平気で試験前になるとノートを貸せだの、コミペを代わりに出せなどといってきて、あちらの用が済めば簡単に切り捨てる薄情さが悲しいからでもある。
そして、最後の理由が、絶対にそうなれない自分をパリピを通して見つけてしまうからなのである。
ワタシは、パリピな彼女たちがもっているような、細くて綺麗な足も、可愛らしい顔も、メイクのスキルももってないし、
明るさと元気さだけを武器に無邪気に他人に関わっていく勇気も振り切れたものも持ってない。
USJなんかで何のためらいもなく短いスカートでコスプレしてる彼女たちを見ると眩しい気持ちになるし、率直に羨ましい…と思う。
男子だって多分そうなんだろうな、と思う。
ワタシの最も身近な男子、ワタシの弟は典型的なパリピで。
毎日朝っぱらから長いこと鏡に向かって髪型をくまなく確認するし、服装だってアウターとインナーの組み合わせに前日から悩んでる。
クラスラインのなかで繰り広げられる自己紹介のLINE一文にもユーモアとセンスを詰め込もうとする。
「真ん中にいないと楽しくない」
というのが彼の持論だし、実際どのクラス写真でも彼はど真ん中で満面の笑みで写っていて、
一緒に歩く友人たちは華やかなイケメンや、すらりと背の高い好青年ばかりだ。
街で歩いてる弟はすっかり今どきの若者になりきっていて、同じような格好の友人と笑い合っているけれど、何気ないその服装とか髪型は前日から一生懸命考えて作り上げたものだ、と知っていたらなんだか笑えた。
パリピの女の子たちも男の子たちも、
彼らにとって可愛くあること、カッコよくあることは日常を楽しむためのパスポートみたいなもので、外せないところなのだと思う。
きっと朝っぱらから何十分とかけてメイクしたり髪の毛整えたり、バイト代を服代に流し込んだり、不断の努力の果てに彼らは自分を「雰囲気イケメン」とか「量産女子大生」に作り変えて、仲間と笑いあうのだと思う。
おきまりの仲間とおきまりのノリで、自分たちを「マジでキャラ濃ゆい」とか「安定の○○メン」なんて言葉で形容して特別だと思い込む。
ワタシはパリピでもないし、過去にそうあったことだってないから、パリピの人間関係を薄っぺらいとか、軽薄だ、などと決めつる権利はない。
パリピはかっこいい、可愛い、楽しそう。
だけど全てそれをまとめた上でもワタシはパリピになりたいとは思わない。
例えば、大学の図書館で毎日一心不乱に勉強してる冴えない男子。
傍目から見れば何やってんだ、かも知れないけどそこまで打ち込めるものを見つけてる彼はきっと幸せだと思う。
バイトで稼いだお金を好きなゲームに流し込んでる友人は最高に満たされた顔をしている。
普段大学の表舞台には出てこないけど、
誰も知らないことに命をかけてる人たちだっている。
それはディベートかもしれないし、カルタかもしれないし新聞かもしれないし、放浪かもしれない。
一番いけないのは、つまらないつまらないとネットと部屋に閉じこもること。
一日中ゴロゴロ過ごす日常のこと。
Twitterで、にちゃんねるで、パリピを叩いて、
パリピじゃない人たちを陰キャと罵って、
根拠のない優越感に浸っている人たちだとワタシは思う。
遊び疲れても仲間とLINEして、また遊んで遊んで青春を謳歌するパリピと、
趣味とかサークルに青春を溶かしこんでいく人たち。
はたまた学問に身を沈めて昂然としてる図書館の民。
いろんな生き方があるし、多分正解なんてないと思う。
だからこそ、オブザーバーになりきって一段上から批判してばかりの人にはならないで、何者かになって生きていきたいとワタシは思う。
何か必死になれて、「これだけは、」ってものを自分のなかで見つけて持っていきたいというのが素直なワタシの望みなのだ。
結果的にみんな違ってみんないい、みたいな安直な結末に帰着するわけだけですっごく悔しいのだけれど、これから先もワタシは自分の立ち位置と居場所と、「これだけは、」って何かを求めて果てしなく流浪していくのだと思う。
曖昧な立ち位置のまま、虚しさと焦燥感に襲われながら、ひたすら自分を求め続けることは、もしかしたらみんなが感じてることかもしれないし、ワタシが難しく考えすぎているのかもしれないが。
明日も明後日もずっと笑ってられるように自分の立ち位置と正体を探っていかなければならないのだ。