人工イクラの先輩のこと。
「人生はいつでもやり直せるんだから、俺は今はやりなおさん。がんばらねーよ。」
はじめて先輩に会った時、先輩はイクラを作っていた。
なんの変哲もない細いフレームのメガネをかけて、少し汚れた白衣に身を包み、ニヤニヤとなにか悪い顔で笑っていたのを覚えてる。
手を出せ、というから右手を出したらワタシの手のひらに小さな綿の塊を乗せていきなりチャッカマンで火をつけた。
綿は一気に燃え上がったけど、ワタシの手は全然熱くなくて、びっくりしてぽかんとしているワタシの口の中に先輩はアルギン酸で作った人工イクラを放り込んだ。
イクラは口の中で潰れて、なんの味も付いていないただの水が滴った。
またしても驚いているワタシをみて先輩は笑い転げて、とうとう椅子から落ちてしまった。
先輩の笑った顔があまりにもおかしそうだったから、ワタシもなんとなく笑って、その日ワタシは先輩から半ば強引に化学部への入部届けを書いたのであった。
先輩は不思議な人で、
まず学校に来ないし、来てもエロゲーのことと訳のわからない実験の話しかしないし、
いつも退部届けを書いては、顧問の先生やら先輩の同期に破り捨てられていた。
そんな先輩のことをワタシはあまり気にかけてなかったし、
というかあんまり学校来ないから会うこともなかった。
そんなある日。
化学室の扉を開けると、例の先輩が友人と激烈な議論を繰り広げている最中だった。
「紺だよ。」
「いーや、紺はもう古いよ。時代は白。」
「白じゃ引き立たない。紺と白のコントラストが美しいんだよ、」
先輩が化学室に連れ込んだ友人は、白派。
先輩が紺派らしい。
いよいよわけがわからない。
それにしても、たかだかスクール水着でここまで熱くなれるものなのか。
「白を白で染めることこそ、美学だろ」
「現実的に考えろよ、んなに出るかお前!身の程を知れよ!」
最低だ。
最悪だこの人たちは。
このあと、エロゲーやエロアニメで出てくる[自主規制]が現実に出る量のおよそ7倍である、という世界で一番使わない雑学をワタシが手に入れた頃、やっと先輩たちの議論は幕を閉じた。
「おい、土山。」
「はい、」
先輩がワタシをみた。
ワタシの名前を覚えてることが驚きだった。
「ジュース買ってこい。」
「はい。」
パシリだ。
パシリだよコレ。
なんなんだこの人。
走ってジュースを買ってきたら、先輩はワタシに駄賃だよ、といって500円玉をくれた。
先輩は多分すごく頭のいい人だったと思う。
いつも、化学室に先輩がいる時、訳のわからない実験に付き合わされた。
だけど、そんな訳のわからない実験は毎日ワタシに魔法みたいな現象を見せてくれたし、たまに先生に隠れてビーカーに精製水で作ってくれるコーヒーは隠れて飲ん出るからか特別な味がした。
その日も、先輩はなにやら化学室でガチャガチャと忙しそうにしていて、ワタシはその様子をぼんやりと見ていた。
「なー、土山。」
先輩から話しかけてくるのはレアだ。
ワタシは緊張を隠すにはどうすればいいか考える。
「なんでしょうか?」
声が上ずる。
「なんでもねーわ。」
その日の先輩はなんだか変だった。
いつも飄々としているのに、なんだか歯切れが悪くて、冴えてない。
化学室に差し込む、10月の夕日がワタシたちの世界をオレンジ色に染めていく。
先輩の横顔はなんだか悲しそうだった。
先輩、どうしたんです?
その一言が言えないまま、ワタシは試験管を洗った。
それからずっと先輩は学校に来なかった。
何回も化学室に通ったけれど、先輩の姿はなかった。
先輩が 学校を休むこと三ヶ月。
化学部仲間の友達が、先輩が来ているということを教えてくれた。
走って化学室に駆け込んだら、何にも変わらない先輩が仲間と相変わらず変な話をしていた。
久しぶりに来た先輩は、液体窒素で作ったアイスクリームをワタシの口の中に放り込んだ。
液体窒素、−219℃のアイスクリーム。
味云々の前にしたが火傷して冷たいのか熱いのか痛いのか分からなくなって悶絶してるワタシをみて、先輩はワタシが入部した日と同じように笑った。
先輩は不思議な力があると思う。
先輩の周りだけ時間がゆっくり流れるように、限りなく穏やかでなだらか。
先輩がどうして学校に来ないのか、とか。
普段どうしてるのか?とか。
そういうことに踏み込む権利はないし、知ることはできないけれど、ワタシはそれを少し切ないと思いながらそれでもいいと思った。
会えるのか、会えないのかもわからない。
頼りない先輩だけど、それも先輩らしいと思えた。
先輩は三年生になって、受験生になる。
もう、先輩は化学室に来ることはなかった。
いや、学校にも来てないのかもしれない。
時間の流れはあっという間で、先輩は卒業の日を迎えた。
照れ臭そうに卒業生の整列に混ざっている先輩を見つけて、そのことをとても嬉しく思った。
その日は土砂降りの雨だった。
化学部だって、一応部活。
その年はワタシと同期の友人たちと先輩たちを送り出すために、カードとか色紙とかプレゼントをたくさん用意していた。
三年の先輩に頼んで他の先輩を集めてもらって、ささやかなお別れパーティーを部室でする準備をしていたのだ。
ワタシは雨の中、自転車に乗って、少し遠くの花屋に花束を取りに行った。
黄色いチューリップをたくさん買った。
来ていたカッパをチューリップが濡れないようにカゴにかぶせてずぶ濡れで走る帰り道。
そこにいないはずの人を見つけた。
「先輩、」
叫ぶように言うと、少し驚いたような顔をした先輩がぽかんと口を開けてこちらを見た。
「先輩、何してるんですか?こんなところで。
今から化学部で先輩たちのためのお別れ会があるんですよ!なんで、帰ってるんですかー!」
「え?」
ワタシの言葉にぼんやりとしている先輩を急かし立てて学校に戻った。
先輩は傘をさして、ワタシはずぶ濡れで、なんだかどうしようもない絵柄だ。
だけど、ワタシは変な高揚感に包まれて、先輩はワタシに追い立てられて土砂降りの道を駆け抜けた。
それはめまいがするくらいに楽しかったし、幸せだと思った。
化学室に帰った時、先輩はクラッカーの破裂音で迎えられた。
みんな、先輩を待っていたのだ。
そして、ずぶ濡れになったワタシは黄色のチューリップを取り出して、友人たちは色紙とプレゼントを運び込む。
ニヤニヤ笑ってる友人たちが先輩の色紙とプレゼントをワタシに渡してくれた。
ワタシはそれを何てない顔で、先輩に渡す。
何てない顔。
何てない顔。
耳まで赤い何てない顔。
化学室は賑やかで、煩い時間がいつもより早く早く流れる。
「サンキューな、」
つぶやくように先輩が言う。
「ああ、まぁ。」
ワタシはぱくぱくと餌を求める金魚みたいになっている。
「なー、お前。これからどうすんの?」
別の先輩が先輩に問いかけた。
「さあねえ、どうしようかねえ。とりあえず浪人だろ。」
先輩が答える。
「お前、浪人なんて耐えられんのかよ、学校も来れなかったくせに。」
不登校すらネタにしてる先輩の友達に一瞬、びっくりしたけれど、
先輩は大きく笑って、メガネを直して。
「大丈夫だろ。人生はいつだってやり直せんだからな。好きな時にやり直せばいーんだよ、」
満面の笑顔。
先輩の笑顔。
先輩と一枚だけ写真を撮った。
もう、どうしようもねーな、と思った。
「土山、お前も今から受験か?」
写真を撮る時、先輩が言う。
「はい。」
ワタシは緊張にこわばった顔で答える。
多分最高にブサイクな顔だと推察される。
「頑張れよ、」
カシャ、と無機質なカメラ音。
先輩が卒業する。
「最後に、ジュース買ってきて。」
いつものように先輩が頼む。
ワタシは走って買いに行くけれど、帰ってきたところに先輩はいなかった。
キラキラ光る500円玉を残して、先輩は旅立った。
なんとも先輩らしい終わりに、ワタシは笑う。
先輩がどうなったのか、今どうしてるのかはわからない。
生きているのか、死んでいるのかすら分からない。
だけど、キラリと光る500円玉を見るたびに先輩のことを思い出して、ワタシはあの笑顔に出会えるのだ。